1.長野県ではありません
北軽井沢と言えば・・・大勢の方がここは長野県だと思われているのも事実です。北軽井沢は大正時代に草軽鉄道が開通し、昭和初期には既に避暑地、観光地としてけっこう賑わっていました。日活を始め多くの映画会社がロケ地としてこの付近を活用しました。今でも北軽井沢交差点の近くには、廃線となった草軽鉄道の駅舎が残っており、当時の様子をしのばせます。現在もホテル、旅館、ペンション、リゾートマンションなどがあり北軽井沢の中心地となっています。1955年から4年間、浅間牧場周辺にオートバイの耐久レースのコースが造られ「浅間火山レース」がおこなわれ、たくさんの観客で賑わいました。このレースのメモリアルとして浅間園の中に浅間記念館があります。往年の名車陸王、懐かしのホンダCB、ヤマハのレーサーと好きな人にはたまらない記念館です。
北軽井沢は高原の広さと周囲の山並みのすばらしさからすると、その景観は軽井沢というよりヨーロッパに近い感じがします。特に北軽井沢信号から高崎に向かう途中、国境平付近はオーストリアのウィーンの森を思わせます。

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2.北軽井沢はどのあたりまで
北軽井沢は正式には群馬県の長野原町の南部地域の地名です。北軽井沢の南側は軽井沢町ですので、文字通り北軽井沢となります。しかし、実際にはもっと広い範囲が北軽井沢と呼ばれています。ではどこからどこまでが北軽井沢と呼ばれる地域なのかというと明確な規定はありません。たぶん浅間山の北側にひろがる浅間高原の東側半分ぐらいだと思います。市町村でいうと長野原町の南部と嬬恋村の南東部のあたりということになります。

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3.北軽井沢の由来
もともと北軽井沢という地名ではありませんでした。名前の由来は大正時代、地蔵川という名前だった場所を法政大学の教授、職員が避暑のため大学村をつくった際に、「北軽井沢」という名前で呼んだのが始まりです。その後、これが広まり定着したため昭和61年に長野原町は南部地域(10区)の地名を北軽井沢に変更しました。

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4.リゾートとしての歴史
軽井沢は江戸時代には中山道の宿場町として栄えましたが、明治となるとともに衰退しました。明治21年にイギリス人宣教師
A・C・ショウが別荘を建てたのが、現在のリゾートとしての歴史の始まりです。北軽井沢も昭和3年に法政大学の学長、松室致が法政大学の教授や関係者たちに土地を分譲したことが、リゾートとしての歴史の始まりとなりました。
北軽井沢には明治15年に北白川能久親王が軍馬育成牧場を開設しました。これが現在の浅間牧場です。そして大正6年7月に小瀬温泉から吾妻間の草軽鉄道が開通します。当初、駅は栗平にありましたが、翌年に地蔵川に駅が出来ます。その後、この駅が大学村の人達により新築、寄贈され北軽井沢駅となりました。ちょうどこの頃、北軽井沢と鬼押し出しとの間で乗合自動車の運行も開始されました。 昭和の初め北軽井沢の別荘地としての人気は高まり、岩波書店の創業者、岩波茂雄など多くの文化人たちが別荘を建てます。戦争中には、野上弥生子や劇作家の岸田国土が北軽井沢に疎開していました。特に野上弥生子は大学村の開村以来の住民で99才で亡くなる直前まで夏は北軽井沢で過ごされたそうです。その後も避暑地としてのすぐれた環境から別荘は増え続け、このエリアだけで9000棟の別荘があると言われています。昭和35年には草軽鉄道が廃止されてしまいますが、モータリゼーションの発達とともに軽井沢や草津などともにこの地域の重要な観光ルートとなりました
5.北軽井沢戦後開拓の様子
北軽井沢周辺には戦後満州國(中華人民共和国東北部)開拓から引き揚げて来た人たちが入植した、大屋原地区、群高地区、ハイロン地区。地元二三男が入植したアテロ、下小菅地区や東京都が募集した「浅間開拓地区」などの農地1000haが広がり、赤貧の中から鍬ひとつで現在の農業集団を創りあげました。主な営農形態は酪農と夏秋露地野菜で酪農の潤沢な堆肥を用い、夏秋白菜、レタス、キャベツ、モロッコインゲン、花豆、とうもろこし、馬鈴薯など栽培しています。
平成13年から既存応桑区の生産者と共に共同販売組織を設立し、現在は京浜地域の供給産地の中でも頼れる中堅として頑張っています

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